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立花郷(周辺)歴史回廊

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立花郷のすがた

航空写真 三昧塚周辺

 当地方では、古代中世で使用されてきた「橘」の表記ではなく、「立花」と記し「たちばな」でなく「たてはな」と呼んできました。藤原氏と対峙する大和の古代豪族橘氏の氏を地名として使用することを憚ったことや大化の改新後地名に良い字二字を使いうことなどが決められたことから「立花」の地名が創られ今に伝えられたとも考えられます。
[古代]
 雷電山慈照院萬福寺周辺は、台地と霞ヶ浦及び小河川により創られた洪積台地と沖積低地で構成される山の幸海の幸に恵まれ風光明媚な地域です。紀元前1万年以上前の旧石器文化を裏付ける遺跡は発見されていませんが、行方市内全域から尖頭器などの旧石器が発見されていることから、内陸部の湧水地周辺には住居址やキャンプ址などが遺されているものと考えられています。
 縄文時代になると狩猟のみから植物採取や焼き畑あるいは漁労など食料の確保ための技術や加工方法が発展したことで長期的定住化が進展し、また栄養状態の改善が図られたことから人口の増加が見られるようになりました。そのことを裏付けるかのように縄文土器片や石器などが広く分布し、条件の良い台地には縄文集落が形成されたていたことがわかります。

八木蒔貝塚立花地方では、沖洲の立木貝塚や八木蒔貝塚が代表的な縄文遺跡で、霞ヶ浦に開く谷津の支谷に臨む台地縁辺部に営まれた集落です。立花郷造神社の東側谷津上流の台地で隣接する小美玉市与沢地区にはハマグリ、ヤマトシジミを中心とする南坪貝塚があります。
 また、沖洲高野地区にある石神遺跡は、近年まで石神信仰の対象として地域で護られてきた石群ですが、別荘地開発で移動したとお言われ原位置はわかりませんが、その形態から環状列石とも考えられ縄文時代に築かれ営まれてきた原始的信仰の痕跡の可能性もあります。

 弥生時代の集落跡は発見されていませんが、隣接する芹沢地区からは弥生時代後期の十王台式の土器の出土例や方形周溝墓と呼ばれる遺構の報告もあり、稲作の伸展とも関連して縄文集落とは違う場所を選地した可能性も考えられます。立花地方は、茨城県内でも古式古墳である粘土郭を主体部とする前方後方墳勅使塚古墳をはじめとする中型古墳群を形成する地域であり、その経済基盤となる稲作文化を支える多くの人々が暮らす地域であったと考えられます。
 このような歴史的環境から、沖洲にある行方市指定文化財史跡である三昧塚古墳の周溝等確認調査においても数片の弥生式土器が発見されており(『三昧塚古墳第3次発掘調査報告書』2001年3月玉造町教育委員会)、湖岸周辺の微高地も水田に隣接する弥生集落の営まれた場所として最有力と思われます。

航空写真 三昧塚周辺

 続く、立花地方の古墳文化は常陸国の中でも突出した繁栄を見ました。前述の勅使塚古墳に続いて前方後円墳を主体とする沖洲古墳群が形成されます。5世紀から6世紀を中心に古墳群が築かれました。勅使塚の選地する台地下の沖積地に築かれた権現山古墳、延戸古墳、馬型飾付金銅製冠ほか多くの馬具・甲冑等を出土した沖積地選地の三昧塚古墳、帆立貝式で県内では珍しい横穴式石室を有し猿の埴輪を出土した大日塚古墳、そして終末期の八重塚古墳群と続きます。羽生及び八木蒔にも古墳群としての遺跡指定があり箱式石棺の出土事例もありますが、集落趾と一体的でかつ対峙した明確な墓域としての環境エリアがないのが現状です。
 しかし、同じ立花地区でも梶無川河口方面となる浜地区は霞ヶ浦舟運の拠点として早くから発展してきたことから中規模の前方後円墳で構成される大古墳群が形成されています。沖洲地区の古墳文化に続く時代にはじまり、その後は仏教文化の影響を受けた遺物「銅椀(仏具:佐波理サハリ)」も古墳から2点出土していることから、7世紀後半まで古墳の築造があったことが想定されます。

 古代のすがたを伝える史料として風土記があります。全国で5つしか残されていない一つが『常陸国風土記』で、6世紀から8世紀初頭までの行方地方の暮らしや動きが記されている貴重な地誌です。しかし、写本のため行方郡条を除いてその多くが省略されているため、古代茨城郡に属していた立花郷については知る術がありません。「羽生」や「笄崎」などの地名伝承が風土記の記述に通じるものと考えられます。
 奈良平安時代の立花地方は、律令制下の制度の中で、生産や様々な租税・役務に対応していました。条理により区画された口分田を耕し、租庸調の税を納めながら心豊かに慎ましい生活をしていたものと思われます。特に、平城そして長岡、平安京の都の貴族たちが執り行う様々な使役に翻弄されつつ、武士の台頭への力が蓄えられてくる時代でもありました。特に、成人男子が防人制度や蝦夷討伐徴兵による兵役に駆り出されたりしました。

万葉歌碑 羽生には、東陽会館敷地内に万葉歌碑があります。「橘の下吹く風の馨しき 筑波の山も恋ひすあらめかも」と防人として九州へ赴いた占部廣方が詠んでいます。捻木にも若舎人部廣足の防人歌「防人に立たむ騒ぎに家の妹が 業るべきことを言わず来ぬかも」の万葉歌碑が建立されています。当地方からは、多くの人々が有能な農兵として西国辺地の防御に向かい、その後は蝦夷地へと赴いたのでした。市内には坂上田村麻呂の蝦夷征討と合わせて大同年間(806~809)の創設の寺社が多くあります。八木蒔円勝寺、荒原神社及び西蓮寺香取神社はじめ麻生地区の寺社にその例を多く見ることができます。

羽生館跡

 平安時代末になると律令制は崩壊し、摂関政治の中で寺社の勢力も伸び荘園が全国に広がり支配の二重構造が創られ、貴族や荘園を護る形で武士が活躍するようになります。立花地方は、古代から中世には橘郷と呼ばれ12世紀中ごろには源義家の子孫の国井氏が進出していましたが、源頼朝が鹿島神宮へ寄進した関係から鹿島神官系の大禰宜中臣氏も橘郷へ進出するようになり鎌倉時代まで抗争が続きました。大禰宜中臣氏は、羽生村、八木蒔村そして倉員(倉数)村などの新村を開いていきました。橘郷南東部地区には、若舎人氏や箱根氏などの小領主が勢力を拡げていました。鎌倉時代末になると大禰宜中臣氏は、庶子を現地に派遣し在地領主化を進め、南北朝期14世紀後半に残された記録香取神宮文書には羽生に館を構えていた大禰宜中臣氏系の羽生氏が津(港)を有し、香取神宮に海夫税を納めていたことがわかります。その後も羽生氏は立花地方を安定的に治め戦国時代まで続くことになります。
 天正19年豊臣秀吉から常陸国の国守と土地を安堵された佐竹氏により立花郷もその傘下におかれ佐竹領となり、玉造城には川井大膳が入部し蔵入地として治めました。特に真言宗を帰依していた佐竹氏は、沖洲の真言宗壇林的役割のあった常福寺を庇護しました。行方市指定有形文化財山門には、佐竹の「扇に月」紋跡が残り短期間中に真言宗の古刹を大切にした姿を垣間見ることができます。
 しかし、関ヶ原の戦い後は東西軍の動きを静観していた佐竹氏は秋田へ国替えとなり、そこへ多くの大名や旗本領となり、あるいは江戸に近いこともあり天領として位置づけられました。立花地方の村々も隣接しながらもそれぞれ領主が違う形となりました。特に、水戸藩は、外様大名の抑えの役割を担い、穀倉地帯や主要街道沿いや舟運の拠点を含む地域を領有しました。

常福寺山門 羽生は、佐竹氏以降武田氏そして水戸藩徳川氏となり明治維新を迎えました。沖洲は麻生藩新庄氏、そして八木蒔は麻生藩新庄氏から麻生藩分家旗本新庄氏領となり明治維新となりました。当地方は、相給村もなく転封大名もないことから江戸時代をとおして同じ領主で安定した支配体制が続きました。

年号
      1591  1602    1603     1604     1662 1676   1871
八木蒔
塙氏
佐竹氏
水戸武田
水戸徳川
麻生新庄
旗本新庄
廃藩置県
羽生
羽生氏
佐竹氏
水戸武田
水戸徳川
沖洲
(羽生)
佐竹氏
水戸武田
水戸徳川
麻生新庄
再興

 明治時代になると、立花地方は新治県・宮谷県を経て茨城県に属しました。大区小区制度を経て明治22年に立花村となり、昭和30年には玉造町に属し、平成17年には現在の行方市に含まれました。