平清盛は、北面の武士を務めた伊勢平氏一族ですが、その祖先は桓武天皇の皇 子高望王を祖とする常陸平氏です。承平天慶の乱で甥の平将門に滅ぼされた平国香はじめ代々地方官大掾職を務めたことから、常陸国で勢力を伸ばし国府を中心に戦国時代まで守護・戦国大名たちの狭間で生き続けます。清盛の先祖となる伊勢平氏は、国香の子で将門を討伐した貞盛の維衡が源氏の家人となることを潔しとせず、伊勢国に下向土着し朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族となりました。
源平の合戦においては、宗盛ら平家とルーツを同じくする常陸平氏が鎌倉御家人として源頼朝や義経に従い敵対することになります。
『源平合戦』の屋島の戦いで源義経に従い戦死したとされる平景幹は、常陸大掾氏の庶流の吉田流平清幹の子平忠幹の嫡男で行方太郎刑部大輔と称し、行方地方の荒野開発を推し進めました。特に、鹿島社領が多い北浦湖岸縁の加納十二箇郷と呼ばれる地域へ進出し、鹿島社や神官系の豪族と衝突を繰り返しました。
忠幹が構えた行方館跡は、自然の地形を要害の地として活かした単郭方形館と考えられ、その後時代を経て幾度か改造されてきたものと思われます。現在も館跡には土塁と堀が巡らされ、五輪塔群も残されています。
平安末に常陸平氏は鎌倉に挙兵した源頼朝の動きを静観しかつ敵対関係を持っていたが、頼朝の鹿島社を利用して関東武士団の懐柔策を進める源頼朝の傘下に入るようになり、寿永二年(一一八三)に起こった志太義広(志太三郎源義広)の乱を契機に常陸平氏の勢力は後退し、翌年常陸平氏は頼朝の御家人となっています。この後行方郡内の開発村などが鹿島社に寄進されています。また、鹿島神官系の中臣則親・親広父が勢力を伸ばすことになります。
鎌倉殿頼朝の御家人となった景幹は、源頼朝の弟源義経とともに平家追討の任に就き、屋島の戦いで命を落としたことから、その所領は四人の子に分割相続されました。総領平為幹は、行方のちに小高の地に本貫地と居館を構えることから小高太郎を称し、平髙幹は牛堀地方を治め島崎次郎を名乗り、平宗幹は麻生地域を領し麻生三郎と称し、平幹政は玉造地方を治め玉造四郎としました。その後戦国期を迎える頃になると同族ながらも対峙する構図をとることになります。
父平清盛と母高階基章の女との間に嫡男として誕生した平重盛は、豪快なリーダーシップを持つイメージの父清盛とは対照的に、温厚で冷静沈着な有能な武士として評価され平家の総帥の後を継ぐだけの資質を有していたとされてきました。清盛の後継者となるべき子の中で毅然と輝く嫡男と言えます。
重盛は、父とともに保元の乱(一一五七)や平治の乱(一一五九)に参戦し、功績により官位を上げ、伊予守に任命されています。その後も出世を重ね、仁安二年(一一六七)には権大納言、治承三年(一一七七)には正二位内大臣兼右大将に任じられています。
しかし、治承三年(一一七九)五月に出家(法名:浄蓮)すると父清盛より二年先となる同年七月二九日に死去してしまいました。翌年には源氏追討軍が富士川の戦いで大敗し、清盛も治承五年(一一八一)に没したことから平家は衰退の一途を辿ることになります。
重盛は京都小松の地に屋敷を構えていたことから小松家とも称されていました。清盛の死後には嫡男であった重盛が既に死去していたことから宗盛が後継者となり、小松家は一門の傍流と追いやられてしまいました。この重盛の補佐役として活躍するのは平貞能(さだとし)で、筑前守や肥後守を歴任し九州地方で活躍した人物です。貞能は九州征伐後帰還するも寿永二年(一一八三)七月に平家が木曽義仲軍に攻められると、重盛の墓を掘り起こし遺骨を取り出し、京を退去しました。九州に退去していた貞能は平家本隊とは別れ出家し九州に残り、平家滅亡後の元暦二年(一一八五)六月に宇都宮朝綱を頼り鎌倉方に投降し、朝綱の嘆願で助命が適い下野、常陸地方を廻り重盛の供養を続けました。特に小松寺を開基した後も源氏の追跡を恐れ更にゆかりのある行方二郎を頼り若海に納骨し庵を構え終生弔いを続けました。当地を支配したのは、行方氏一族ながら鎌倉時代には常陸南郡のほか、上総、下総、遠くは長門国吉永庄地頭職を兼ねる幕府と関わりのあると考えられる行方氏でした。
行方市北部に羽生地区の舌状台地に佇む萬福寺は、文治二年(一一八六)八月、栄俊法印の開基をもつ古刹です。「常陸国行方郡芹沢村万福寺三尊阿弥陀仏の由来」によれば、平貞能は平家滅亡後、主君平重盛の墓所が乱世のために焼亡するのを悼み、重盛の遺骨を抱いて下野国粉河寺付近に移り住み、塩原、筑波山護持院から小松寺へ来住しました。ここで主君重盛の遺骨を納め菩提を弔いましたが、源氏の追跡を恐れて平氏ゆかりの深い行方二郎を頼り、行方郡若海に庵を結び終生主君の弔いを続けて往生したとするものです。この庵こそが萬福寺の前身となるもので、文治二年(一一八六)八月に栄俊法印の建立と伝えられています。
その後、室町時代中期に至り常陸大掾の嫡流である芹沢俊幹が行方郡朝日岡に居館を構えると、俊幹の母は結城合戦で討死した父幹兼を弔うため出家し貞覚尼となり館東側に慈心庵を結ぶとともに若海の貞能ゆかりの草庵も庇護しました。貞覚尼没後に慈心院を引き継いだ僧忠伝は、芹沢氏の庇護を受け平貞能ゆかりの草庵を正式に萬福寺としました。そして、俊幹の嫡子範幹は、忠伝没後の永正三年(一五〇六)に忠伝の弟子栄枝法印を住職に迎え、慈心院と合わせて若海の萬福寺を一つとし、雷電山慈心院萬福寺としました。また、貞覚尼の位牌を納め祈祷所として朝日岡明神(芹沢大宮神社)の別当を兼ねることになりました。
この後、萬福寺は芹沢氏勢力下の有力寺院となり、江戸初期までは信仰の中心となり、若常の西光寺、蕨の観音寺、若海の正福院、芹沢の妙見寺・滝沢寺・宝積院の末寺六箇寺を数えていました。しかし、水戸藩は徳川光圀が寺社改革を進め、元禄九年(一六九六)に領内鎮守からの神仏習合の排除と一村一寺の制度を実行しました。芹沢の地にあった萬福寺は、芹沢氏の菩提寺である東福寺より由緒は古かったものの、寛文八年(一六六八)光圀が佐竹氏義宣ゆかりの太田宝源寺を併合することで東福寺再興を許し法眼寺とした経緯もあることから、萬福寺が羽生へ移されたものと考えられています。
常陸大掾の直系に当たり平清盛の伊勢平氏と同じルーツを持つ芹沢氏ゆかりの寺院である萬福寺は、楠正成、万里小路藤房とともに「日本三忠臣」と言われる平重盛ゆかりの寺院です。重盛の重臣平貞能が源氏の追手から主君重盛の遺骨と重盛の守護仏であった阿弥陀如来立像及び観音菩薩・勢至菩薩両脇侍立像三尊を護り続け、若海に安置し庵を設け供養した歴史を持つ天台宗の古刹です。
「常陸国行方郡芹沢村万福寺三尊阿弥陀仏の由来」によれば、平家滅亡後、貞能は出家し小松坊以典となり、主君重盛の遺骨と三尊阿弥陀仏を背負い下野国から常陸国に入り、天平時代の名僧行基開基の白雲山普明院に重盛の遺骨を納め菩提を弔い、京都東山の小松に因んで小松寺としました。その後、平氏ゆかりの行方二郎を頼り、行方郡若海に重盛の遺骨を分骨し庵を結び終生主君の弔いを続けて八十二歳の大往生をしました。
その後、若海の庵は雷電山慈心院萬福寺として芹沢から羽生に移されましたが、重盛公の遺骨は若海の地にあり、歴代の萬福寺住職が命日の八月一日に供養を津続けてきました。約百五十年前に時の住職が遺骨を堀上萬福寺本堂にて供養を続けてきましたが、平成十三年四十九世熊岡堯延が重盛公並びに夫人の供養のため重盛公の遺骨を納めた宝篋印塔と卵塔を建立しました。
また、萬福寺阿弥陀堂に安置されている阿弥陀如来及び両脇侍立像の三尊は、高倉天皇の御世に大流行した疫病により民衆が犠牲になっている姿を見ていた平重盛の夢枕にお告げがあり東山の祠の仏像を祈ると疫病の勢力が衰えたことから、重盛はこの仏像を守護仏としたとされます。この仏像こそが萬福寺本尊の阿弥陀如来立像で、重盛の遺骨とともに貞能が背負い京都より常陸国行方郡の若海へ運び安置したものです。萬福寺が移される度に同像も安置替えされてきたものです。
茨城県水戸市の北に位置する城里町には、茨城空港より5分という身近な行方市羽生地区に七堂伽藍を構える天台宗の名刹萬福寺と同様に、平清盛の嫡男平重盛公を供養する真言宗の古刹小松寺があります。
重盛は、平清盛と高階基章の女の間に生まれた嫡男で、父とともに平安末期に活躍する武将であり公卿でもありました。父清盛を助け『平家物語』では気性の激しい清盛と対照的に温厚で沈着な人柄が描かれ、父の言動に対しても日本の行く末を考え諫言する姿があり「日本三忠臣」として歴史的にも評価される人物です。清盛を助け保元の乱や平治の乱など数々の武功により権大納言、内大臣兼右大将まで出世し京都東山の小松谷に屋敷を構えたことから小松殿とも称されました。清盛の後継者として期待されましたが、病により父より二年先に四十二歳の若さで亡くなりました。その後、清盛が死去すると一転全国の源氏勢力が結集され源平合戦後には平家は滅亡しました。
小松寺は、平重盛の忠臣貞能が治承三年(一一七九)八月一日に京都東山小松谷邸宅において四十二歳で亡くなった主君の遺言により遺骨と守護仏、そして重盛夫人、妹らを伴って高野山に逃れ出家し小松坊以典となり供養を続けました。その後、北陸を廻り宇都宮朝綱の保護下に下野国塩原を経て、重盛の伊勢平氏の祖となる常陸国大掾義幹を頼りました。貞能は、義幹の案内する行基開基の白雲山普明院に重盛の遺骨を埋葬し宝篋印塔を建て、重盛を弔うため伽藍を建立して小松寺としました。その後、貞能は遺骨を分骨し常陸国行方郡若海の行方二郎を頼り重盛公の分骨した遺骨を納骨し庵を構えました。後の雷電山慈心院萬福寺となる堂宇です。
天正十三年(一五八五)、戦乱により伽藍は焼失しましたが、寛文三年(一六六三)に水戸藩主徳川光圀が本堂書院を寄進し、観音堂も白雲山頂より現在の位置に移し建てられました。幕末の藩主徳川斉昭も墓参に訪れ「みやこより 引し小松の 墓なれば 千歳のすえものこるとぞ見る」と詠んでいます。
『常陸国風土記』では、行方流海など地域の名勝に「流海」を加えて表現されている霞ヶ浦も、中世には南部地域を「香取海」と称していました。当地方には、鹿島社及び香取社が鎮座して香取の海で生きる民たちの暮らしの安全と生業を護り信仰を集めていました。『将門記』では、野盗行為をしていた藤原玄明が常陸介藤原憔幾に追討されると行方郡不動倉と河内郡不動倉を襲い穀物を掠奪してから平将門のもとへ逃走した記述があります。当時すでに船団的機能がありか霞ヶ浦を縦横に往来していたと推測されます。平安末には源頼朝が関東一円の武士たちをまとめるため「御恩奉公」の御家人制度を整え、常陸国においても鹿島社の信仰などを活かして家臣化させていきます。さらに源平合戦では水軍と呼ばれる水辺の民たちの活躍があり、その重要性が認められと東国武士団でもその能力を求める者もあらわれ、特に内海である霞ヶ浦周辺の津と呼ばれる港を築き、港と城館との間に宿が発生し多くの職業集団や商人たちが土着することになったと考えられています。また、南北朝期建武五年(一三三八)の北畠親房の東国派遣などが契機となって、水軍の移動と合わせて西海の水辺文化を伝播させた一因と考えられます。
霞ヶ浦流域には、西国地方の地名と同様の地名である「白浜」・「新宮」・「神崎」などが残され、大山祗神社信仰、厳島神社信仰、淡島信仰も広がり、北浦北部の帆津倉等の集落には「河野水軍」の末裔とされる河野一族が暮らしています。