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萬福寺の文化財

萬福寺の文化財【建造物】

仁王門

(茨城県指定有形文化財:昭和45年9月28日指定)

 当山の仁王門は、天正6年(1578)に逢善寺(稲敷郡新利根町小野)に建立されたもので、享保9年(1724)に当寺で新たに仁王門を建立するに当たり、萬福寺住職が依然逢善寺の留守住職をしていた縁故から譲り受け移築したものです。
 形式は、正面両脇間を金剛柵で仁王像2躯を安置した、三間一戸の単層入母屋造りです。屋根は萱葺で八脚門は総体に丹が塗られ一部小壁板に色彩痕が確認されます。細部にわたり唐様式を認める室町時代末期の作風を有する貴重な建造物です。

仁王門

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阿弥陀堂

(茨城県指定有形文化財:昭和45年9月28日指定)

 この堂宇は、常陸平氏芹沢氏ゆかりの萬福寺を象徴するもので、寛文3年(1662)に作成された水戸藩『(寺社)開基帳』に「芹沢村慈心院雷電山萬福寺、此寺開基者文治2年<1186>栄俊法印建立、阿弥陀三尊、平家大将小松中将殿本尊」とあり、当該建物内部の格天井鏡板には「竜の図」が彩色で描かれており、寄進者銘に「貞享4年<1687>、芹沢氏髙幹」とあります。
 様式は、唐和様折衷形式で廟建築を加味した建物となっており、三間四方の寄棟造りで四手先萱葺の念仏三昧を納める常行堂様式に作られています。阿弥陀如来観音菩薩及び勢至菩薩三尊を安置する須弥壇の荘厳な造りと配置がその形式を物語っています。

阿弥陀堂

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阿弥陀如来立像両脇侍像

(茨城県指定有形文化財:昭和33年3月12日指定)

 この阿弥陀如来立像及び観世音菩薩ならびに勢至菩薩立像両脇侍像は、本山の本尊であり源平争乱の末敗北した平家一門が都落ちの際、小松殿(故平重盛)の祈願仏であった当該三尊を重盛の遺骸とともに重臣平貞能が当地に奉じたものとされています。
 阿弥陀如来立像は、像高96cmを有し螺髪は細い針金を撚り合わせて一つずつ植えつけています。玉眼入りの上品な顔立ちで口をわずかに開き歯が見える全国も数少ない歯吹きの珍しい像です。衣紋には截金紋椽(きりかねもんてん=雷紋・九紋・蓮華唐草紋)の施しがあり、仏足石にならい足裏にまで輪棒花瓶(りんぼうけびょう)の截金の施しが認められます。
 脇侍となる観世音菩薩と勢至菩薩の両立像は、2躯とともに像高72cmと阿弥陀如来立像より小さく、茨城県指定有形文化財阿弥陀堂の須弥壇上の厨子の中に安置されています。これら三尊は寺伝より遅れること室町時代中期の秀作と考えられています。

阿弥陀如来立像両脇侍像

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木造阿弥陀如来立像

(行方市指定有形文化財:平成15年8月11日指定)

 この仏像は、萬福寺の本堂に安置されています。来迎印(らいごういん)を結び蓮華座上に立つ木造阿弥陀如来立像です。
 本像は、頭部は大粒の螺髪(らほつ)で表現され、肉○(にっけい)は低く、地髪の鉢が張り、髪際が中央でやや下がる表現となっています。強い現実的な顔立ち、偏衫(へんさん)に衲衣(のうえ)をまとう衣文(えもん)の太くかつ動きをもった襞の彫り口や左肩に大きく折り返される衣端の表現などは、鎌倉時代後半の作風を示しています。
 割矧造り(わりはぎづくり)、玉眼、像高84.9cm。

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金剛力士阿形吽形像

(行方市指定有形文化財:平成23年5月26日)

 本山には、茨城県指定有形文化財の仁王門があり、そこには三山髻(さんざんけい)を髻紐で結び、上半身裸形で筋肉隆々とした2躯の仁王像(金剛力士像)が安置されています。左に怒りの表情を顕わにした阿形(あぎょう)像と右には怒りを内に秘めた表情の吽形(うんぎょう)像が置かれ、眷属として本尊守護の役を担い仏敵が入り込まないように、両眼を見開き片足を踏み出して台座に立っています。
 ヒノキ材、玉眼、」錆漆下地で肉親部は朱漆塗り仕上げ、裳裾(もすそ)は色彩仕上げ。
 平成20年9月から平成22年9月までの本山単独事業の修理により、吽形像左腕取り付け接合面に墨書名が見られ、江戸時代中期の享保8年(1723)に大仏師□慶□の仏師名が記され、仏師名と造像年が確認された貴重な仏像となっています。同時に明和3年(1766)に再興されたことも判明しています。

阿形像 総高2.7m、像高2.42m、面幅21.7cm、面奥29.7cm
吽形像 総高2.7m、像高2.5m、面幅22.8cm、面奥34.5cm

※仁王像は、二十八部衆の一尊としては、それぞれ薬師如来の眷属とも言われ、阿形像は、那羅延堅固王(ならけんこおう)、吽形像は蜜迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)とされます。

仁王像阿形吽形像01 仁王像阿形吽形像02

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萬福寺の文化財【境内ならびに周辺の史跡】

羽生館跡

(行方市羽生字城山・要害・根古屋ほか)

 萬福寺が境内を構える台地は、南北及び西方を町田川が造る谷津に囲まれた自然の要害の地であり、鎌倉時代末には鹿島社(鹿島神宮)神官大禰宜職を勤めた中臣氏が館を構えた跡と考えられています。通称城山と呼ばれる当地は、連郭式の城館であり西端部が一の曲輪となっており、二の曲輪との間には現在も土橋が遺され城館研究上貴重な遺跡となっています。三の曲輪は萬福寺及び境内墓地、そして羽生小学校として利用されています。更に縄張りは東へ延びており県道大和田羽生線先の蓮池まで、堀や土塁の遺構跡が散見できます。南方の霞ヶ浦川側と北方町田川上流の橘郷造神社脇の笄崎に続く谷津を分断するように堀切が見られます。
 館主と考えられる中臣氏は、平安末期に中臣則親が鹿島社で勢力を確立させ、藤原摂関家や源頼朝等の中央権力者に接近し、社領の拡大に貢献し鎌倉時代中期には最盛期を迎えました。則親の子はそれぞれ分家し、親廣流中臣氏が南郡橘郷を本拠地として、羽生村をはじめ倉員村(小美玉市倉数)、八木蒔村などを開発しました。鎌倉時代末期の正安2年(1300)の香取文書「前大禰宜実胤陳状案」には羽生村が鹿島大禰宜所領と記されています。また、応安年間(1368~1374)の香取文書「旧大禰宜家文書」には「はねうふなつ 羽生地行分」として記されており、羽生氏を名乗っていた中臣氏が南北朝初期には霞ヶ浦で水産業や水運を生業としていた海夫を支配し海夫税を徴収するとともに香取神宮へ納めていたことが分かります。

羽生館跡

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橘郷造神社

(行方市羽生1390 行方市指定有形文化財/建造物)

 弟橘姫命と木花開夜姫命を祀るこの神社は、『三代実録』の記録にも登場する古い社伝を持っています。また、『東鑑』には、源頼朝がこの神社周辺地域の橘郷を鹿島神宮へ寄進したことを伝えています。
 社殿は、応仁(1467~1468)・文明(1469~1486)の兵火に遭い、焼失したとされ、その後再建され幾度かの改修が行われ現在の姿が残されたものと考えられています。
 本殿は、南向き流造で、間口1.5間、奥行1.7間、2.55坪の大きさを有しています。

橘郷造神社

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蓮池と古代ハス

(行方市羽生字ホロワ)

 羽生地区では、町田川水系と烏崎谷津水系は中流に支谷が少ないことから、流域の溜池築堤が難しいことからその数が少ない状況にあります。その代わりになるのが新溜池と呼ぶ水田を臨時的な溜池として活用する水源確保の方法を採り入れてきました。
 蓮田池は、羽生館跡及び羽生集落の端にあり古くから利用されてきた溜池と考えられています。また、蓮田池には古代ハスが自生しており、初夏には淡いピンクの大きな花を付けます。

蓮池と古代ハス01 蓮池と古代ハス02

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桃浦駅跡と天神山

(行方市羽生字天神)

 大正15年8月15日に開通(石岡駅~浜駅間、全線開通は昭和4年5月16日)した鹿島参宮鉄道の中心的な駅として誕生した「桃浦駅」は、当初羽生駅での申請取扱いのようでしたが、桃源郷のような湖岸(浦)を有していることから「桃浦」と命名されたと考えられ、以後当地方は通称桃浦で知られることになりました。
 この駅開業と合わせて、水辺遠浅の湖岸を活かし湖水浴場として関東一円から多くの観光客を呼び込みました。そのため桃浦観光協会を発足させ、井戸を開鑿しコンクリート製のプールの造成運営や貸しボート、出店、各種イベントを開催し昭和40年代前半まで観光地として成り立っていました。
 歌人の与謝野晶子も茨城筑波潮来方面の家族旅行の際、桃浦を経由して鹿島方面に向かったようですが、その時桃浦で短歌を詠んでいます。

桃浦に 古船待てり 乗るべきか いかに鹿嶋の ことぶれも無し (『深林の香』)

 天神山は、昔から信仰の台地であったものを、観光協会でバンガローやキャンプ場として整備し、夏の観光のメッカとして多くの家族連れや若者に楽しみの場を提供してきました。現在は、天神山を守る会が山を清掃管理し、新たな憩いの場づくりに努めています。

桃浦駅跡と天神山