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平重盛供養碑

平重盛供養碑

平重盛墓所

平重盛墓所 行方市北部に羽生地区の舌状台地に佇む萬福寺は、栄俊法印の開基をもつ古刹です。「常陸国行方郡芹沢村万福寺三尊阿弥陀仏の由来」によれば、平貞能は平家滅亡後、主君平重盛の墓所が乱世のために焼亡するのを悼み、重盛の遺骨を抱いて下野国粉河寺付近に移り住み、塩原、筑波山護持院から小松寺へ来住しました。ここで主君重盛の遺骨を納め菩提を弔いましたが、源氏の追跡を恐れて平氏ゆかりの深い行方二郎を頼り、行方郡若海に庵を結び終生主君の弔いを続けて往生したとするものです。この庵こそが萬福寺の前身となるもので、文治2年(1186)八月に栄俊法印の建立と伝えられています。
 その後、室町時代中期に至り常陸大掾の嫡流である芹沢俊幹が行方郡朝日岡に居館を構えると、俊幹の母は結城合戦で討死した父幹兼を弔うため出家し貞覚尼となり館東側に慈心庵を結ぶとともに若海の貞能ゆかりの草庵も庇護しました。貞覚尼没後に慈心院を引き継いだ僧忠伝は、芹沢氏の庇護を受け平貞能ゆかりの草庵を正式に萬福寺としました。そして、俊幹の嫡子範幹は、忠伝没後の永正3年(1506)に忠伝の弟子栄枝法印を住職に迎え、慈心院と合わせて若海の萬福寺を一つとし、雷電山慈心院萬福寺としました。また、貞覚尼の位牌を納め祈祷所として朝日岡明神(芹沢大宮神社)の別当を兼ねることになりました。
 この後、萬福寺は芹沢氏勢力下の有力寺院となり、江戸初期までは信仰の中心となり、若常の西光寺、蕨の観音寺、若海の正福院、芹沢の妙見寺・滝沢寺・宝積院の末寺六箇寺を数えていました。しかし、水戸藩は徳川光圀が寺社改革を進め、元禄9年(1696)に領内鎮守からの神仏習合の排除と一村一寺の制度を実行しました。芹沢の地にあった萬福寺は、芹沢氏の菩提寺である東福寺より由緒は古かったものの、寛文八年(1668)光圀が佐竹氏義宣ゆかりの太田宝源寺を併合することで東福寺再興を許し法眼寺とした経緯もあることから、萬福寺が羽生へ移されたものと考えられています。

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